Re-birth 「ただいま」から始まる可能性∞LIFE

共に心を耕し、無限の可能性の花を咲かせる ☆こころの路cocreator☆徒然blog

人生初チャレンジ☆ 陶芸教室

今日は、人生初の「陶芸」にチャレンジしてきました!

 

人生初って、なんだかドキドキしますよね〜

 

実は、10年以上前から、ずっと陶芸をやってみたいと思っていたんです。

たまに、近くでできるところはないかと探してみたものの

日程が合わなかったり、思ったよりも金額が高かったり・・・

いつもわたしの「やりたいリスト」にはリストアップされ

心の片隅に残っていた陶芸教室。

ようやく土をこねこねできるこの日がやってきました!

 

実際やってみると・・・

無心で、手を動かして、なんとか形を作り上げて

ふ〜〜〜〜っと気づいたら終わっていた(笑)

 

やってる最中は

楽しいとかなんとか感じたり考えたりっていうよりも

ただひたすらに土と格闘していた感じ。

 

でも、今思い返すと

土のひんやり感や

触っているうちに滑らかになる手触り

その一つ一つが新鮮で

ちょっとした手の動きで形がどんどん変わっていくさまに

次にどうなるかわからない緊張感もあったかな。

 

そして、一番衝撃だったのが、途中で先生が

「土はどんなふうな過程で作られたか覚えているんですよ」

と、説明しながらさりげなくお話されたこと。

どうやら後から(焼いたあと?)形に現れてくるらしいです。

 

陶芸の知識や技術が大切なことはもちろんですが

まずは

土が生き物であること、

土と会話して、仲良くなること、

土と丁寧に出会うこと。

これが初心者でも熟練者でも重要なんだなと思いました。

 

きっとこういうことって

陶芸に限らず、あらゆる場面で大切なことですよね。

モノでもヒトでも空間でも

自分の心や、あり方、出会い方、扱い方によって

必ずそのまま後から現れてくる。

 

今日の作品は、先生が後ほど釜で焼いてくださって

1ヶ月後にできあがってくるとのこと。

どんなふうに現れてくるのか。

ドキドキとわくわくを胸に待っていようと思います☆

 

「日常」と「非日常」

今年は、ほんとにゴールデン!!な賑わいをみせた

GWも過ぎて、気づけば1週間。

 

みなさんは、どんな10日間を過ごされたのでしょうね?

 

意外と休みは休みで、仕事とは異なる疲れが・・・

なんていうこともあったりなかったり!?

世のお母さんたちは、体力の限界も近づき

学校が始まって、少しホッとしているところもあるのでしょうか。

 

 

今年は、いつもより長い非日常のGW。

 

日常と非日常。

 

わたしたちは、よく

非日常の世界にどこか憧れを持ち

非日常がずっと続いたらいいのに〜

なんて思ったりします。

 

でも、その日常と非日常の境は

いったいどこにあるのでしょうか?

 

以前、ホテルで働いていたとき

働き始めた当初は、

その高級感がある美しい空間に「うわ〜〜〜ぁ!!」と

ウキウキ非日常感たっぷりでしたが

いつの間にか

『勤務場所』と認識するようになり

非日常→日常へと変わっていきました。

そして、とても素敵に見えていた空間も

慣れてきて当たり前になり

代わり映えしない風景のように・・・

 

 

非日常も、毎日続けば日常になってしまう。

 

こう書くと、なんだか

「日常」がとってもつまらなそうに見えますが

決してそうではないことは前提で

「非日常」ってなんだろう?ということを考えてみました。

 

それぞれが持っている自分の世界。

当たり前に流れている時間やスピード感、

いつも見ている景色や空間の使い方。

 

その無意識の世界感を

あえてずらしてみる、

意図的に全く異なる世界感(時空間)に飛び込んでみる。

それによって、

自分の世界を広げる、時には、破壊していく。

それが「非日常」というものなのかなと。

 

だから、ベースの「日常」があってこその「非日常」。

また、逆もしかりで、

外を取り入れて刺激や新しい心の動きをもたらしてくれる「非日常」がなければ

「日常」の輪郭も曖昧で、変化も認識しにくくなる。

 

「日常」と「非日常」

どっちかだけでは成り立たない。

とっても素敵なパートナーだったのか!

そんなイメージになりました。

 

それに、自分の「日常」の輪郭がくっきりとしてくれば

同じ人との同じ空間での食事も

自分の認識と行動次第で

「非日常」へと変えることもできますよね☆

 

そして、「非日常」を「日常」に取り入れていけば

もっともっとウキウキするものと出会って

人生がどんどん楽しく広がっていく!

 

「日常」と「非日常」のパートナーシップ。

もっと取り入れていきたいものです!

 

 

「天皇皇后両陛下 お二人の歩み」 写真展をみて

もうすぐ、「平成」から「令和」へと

時代の節目を迎えようとしています。

 

私にとって「平成」とはどんな時だったのだろうか?と

思いふけっていたタイミングで、

ご結婚60周年記念報道写真展

天皇皇后両陛下 お二人の歩み」という看板が

目に飛び込んできました。

 

そうか、平成という時代は、このお二人なくしては語れないんだなと

当たり前のことですが、改めて思いました。

 

 

とても穏やかで、柔らかいイメージがある天皇皇后両陛下ですが

展示されている写真をみていると

「世紀のご成婚」と言われたご結婚、また子育てに始まり

今までの常識を覆し、常に変化を創ってきた姿が印象に残りました。

 

 

そして、

まだ記憶に新しい東日本大震災をはじめとする数々の被災地への訪問、

海外含む戦地への慰霊、

障害者や高齢者など社会的弱者にお声をかける姿など

「象徴」として、模索しながらも

日本という国や国民に対する深い想いとともに

お二人が手を取り合って、共に一歩一歩歩まれてきた姿に感動を憶えました。

 

お二人が歩まれてきた日々は

想像し難いとても険しい道だったことと思いますが、

お互いへの敬い、思いやり、感謝が滲み出るお言葉やお姿に

パートナーシップのモデルでもあったことを感じています。

 

 

天皇皇后両陛下の歩みを少しではありますが覗いてみて

新しい「令和」の時代を迎える前に

この時代、この国で生きていられることへの感謝とともに

自らはどんな道を歩み、どんな変化をしたのか

私も振り返ってみたいなと思いました。

 

「坂本八幡宮」を訪れて

先日、ひさしぶりに九州を訪れたという両親に連れられて

今話題のあの場所に行ってきました。

 

それは、福岡県太宰府市にある

「坂本八幡宮」

 

次の新しい元号「令和」の起源となった

梅花の歌が詠まれた地として、注目されていますね。

地元の神社として大切にされてきたのであろう小さな神社は

私が訪れた時も、平日にも関わらず、多くの人が参拝されていて

ボランティアの方々が温かく対応していらっしゃいました。

 

 

本八幡宮は

万葉集「梅花の歌」の作者と言われている歌人 大伴旅人の自宅があったとされ

「梅花の宴」が開かれたといわれています。

 

大伴旅人も、宴に参加し共に歌を詠んでいた人々も

まさか1200年以上のときを越えて

この地が日本中に知れ渡り、多くの人が訪れて来ることになるとは

思わなかったことでしょう。

 

 

梅花の歌が収められている「万葉集」という名前は

諸説あるようですが、そのうちの1つに

『万世にまで末永く伝えられるべき歌集」

ととる考え方があるようです。

 

その名のとおり、長い年月、多くの時代を経て

人から人へと脈々と伝えられてきた万葉集を通じて

今、「天平2年」という時の点と「平成から令和へ」の時の点が

交わり繋がろうとしています。

 

表の通りから少し奥まった場所に密やかに佇む神社を訪れて

時と時、空間と空間、人と人、

脳のイメージの限界を越えて出会い、繋がっていく不思議さと神秘さを感じました。

 

新しい元号がもたらす影響は

思っている以上に大きなものなのかもしれませんね。

「令和」について、もっと深めてみようと思います。

 

侘び寂びと桜

なんでこんなに桜は

人の心を魅了するのでしょう。

 

今年は、

初めて訪れた様々な場所で、

いろんな桜と出会う機会に恵まれました。

 

 

昼間はおかあさんと子供が集い、

夜は仕事帰りに大人たちがビールを片手に羽を伸ばしにくる

大きな公園でゆったりと咲くSAKURA。

 

川沿いに遥か彼方まで行儀良くならび

毎日通う学生たちの成長を見守っているのであろうさくら。

 

学校を囲んで咲き

毎年やってくる出会いと別れを彩るサクラ。

 

どこまでも続くかのような山々の緑のなかに

遠目にもわかる薄い桜色のぽわっと浮きだす点。

 

お寺の中で、ひっそりとどっしりと

人知れず蕾を膨らませ、春の訪れを告げる桜。

 

 

ほんとにどれも美しく、

今だからこそ出会える一瞬の奇跡。

 

こんなに綺麗なんだから、ずっと咲いてたらいいのに・・・

子供のころ、よく思っていました。

この美しくて、内から沸き起こる嬉しさが

いずれなくなってしまうことを思うと

寂しくって、哀しくて

嬉しいと感じたくないと思うときさえもありました。

 

でも、今は、nTechと出会い、

変化するからこそ

散るからこそ

最高に美しいのだと思うようになりました。

 

咲いている状態だから美しいのではなく

「咲いて散る」

その動きが1つに重なるからこそ美しいのだと。

 

変化しないものなど一つもない。

きっと日本人なら誰しもが持っている

侘び寂びの心。

もっと、深めていきたいですね☆

 

 

幸せに生きるために必要なもの

できるなら、

幸せな人生でありたい。

充実した日々を過ごしたい。

もっと楽しく毎日を送りたい。

 

きっと多くの人がそう願っているはず。

わたしも、もちろんそのうちの1人です。

どうせ同じ時間を過ごすなら

ベストな使い方をして、

最高の時間を過ごしたいと思っています。

 

 

でも、わたしはそう願いながらも、

そのためにとっても必要なあることを

排除した人生を

最近まで送ってきました。

 

 

その必要なこととは

「感情」。

 

嬉しいも、楽しいも

幸福感も、充実感も

感情があってこそ、感情が動いてこそ

感じられ、認識できること。

 

 

わたしは、以前にもご紹介したとおり、

小学校のころに経験したイジメによって

人への不信を蓄積してきました。

 

常にころころと変化し続け、

ときには、

人を傷付けることも厭わないようにさせるもの、

自らの意思でコントロールができないものが

「感情」であり、

感情そのものを持たないように、動かないようにと

努力してきた人生でもありました。

 

以前のわたしの人生はこちらをご覧ください☆

https://michikoro.hatenablog.com/entry/2018/07/24/073000

 

 

そんなわたしが、今は

感情を持つこと

感情を表現することに

価値を感じ、

クローズしていた感情への扉を自ら開け、

さまざまな感情と出会うための路を

せっせせっせと創っています。

 

そのきっかけは、nTechの学びを深めていくなかで

人間が本来持つべき感情は

自ら創ることができるものであり

コントロールできるものであることが理解できたから。

 

感情は、

わたしが、全ての人が

尊厳を持って

幸せに生きていくために必要不可欠なエネルギー。

 

昨日より今日、

今日より明日。

 

自らが創りたい感情を

どんどん生成して

可能性を開いていくエネルギー源として

たっぷり蓄えることに

味をしめつつあります。

 

4月、春の訪れ、桜満開、

新しい年号の発表と共に

エネルギー満タン

エンジン全開で走り出したい気分の1日でした。

 

ただ そのままで

ただそのままで
いるだけでいいのに


ただ
そのままを
感じたらいいのに


ただ
そのままに
表現したらいいのに

 


いつのまに
ただ、ただ
わたしのままでいることが
難しくなってしまうのだろう

 


ときには
無限大泣いて
母を呼び、
ときには
腕の中で
なに一つ心配などないかのように
すやすやと眠る
こどもと触れあって、
羨ましくもあり
いつのまにか忘れてしまっていた
大切なことを思い出してと
言われているような気もした。

 


そうだそうだ。


ほんとは
思いたいように
感じたいように
考えたいように
生きていいんだった…。

 


ただ「わたし」であること。


なんだかとても新鮮で
春の陽気とともに
どんどん軽くなっていきそう。
2019年もますます楽しくなってきました☆